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  聖書短編



1.「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」
            
      申命記 5章11節

 人間は何のために「神」という言葉を使うのでしょう。この言葉を使ったら何かいいことがあるのでしょうか。たぶん、違うと思います。聖書には、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(十戒の三番目)とあります。これは何か特別な響きを持つ神的な名前に限らず、「神」や「主」という言葉、あるいはそれを指し示す言葉を、むやみやたらに自分の味方のように使うなということです。
 自分の空想の中で信じ込むときには、「神」という言葉はトランプのジョーカーのように万能なものに思えます。しかしジョーカーだけではトランプに勝てないように、空想の「神」を絶対化して強気になってはいけないのです。
 私たちの生活は、苦難と隣り合わせです。そこで私たちの持つ願いは自然とささやかなものになります。「神」という言葉は、私たちが小さな願いを想うとき、しみじみとありがたく口にする言葉です。
 イエス・キリストの道は、小さな願いを想う人々の道。その道をたどる者は、それぞれに与えられた日々の生活をしつつ、その中で生まれる何かをこらえながら、神に愛されているのでしょう。おそらくもう充分なほどに。
 だから「神様、神様」と、むやみやたらに口にする必要がないのです。 それが、たとえ教会という場所であっても。

               教会全景          


2.「私は、雲の中に、私の虹を置く。」
        
            
              創世記 9章13節

 創世記に「ノアの箱船」の物語があります。ノアという人が、神に命じられて、ある日から黙々と巨大な船を造り始めます。陸の上の町で、なぜ船など造るのか、しかも巨大な船を、と人々はあざけります。ノアの心の中を、誰も想像することはできませんでした。理不尽な人生を強いられているかのように、無意味に見える「船造り」を、こつこつとやり続けたノアの心の中を。 
 あるとき、大雨が降り出しました。それはやむことがなく、大洪水となりました。すると、全てのものが一瞬にして飲み込まれ、そのときになって、ノアの造った巨大な船が、洪水の波の上に浮かびます。それから長い時間が経ち、 何もかもが終わって、船が地上に落ち着き、ノアたちが外に出たときに、空に虹がかかりました。雨の終わりを示す美しいしるしが、新しいときの到来を教えてくれたのでした。
 虹は、聖書において、神様が人に示すしるしです。理不尽な何かを強いられてしまった人間に対して、「生きよ」というしるしです。
 誰の生涯にも、虹のかかる物語があっていいはずです。

             

 

3.「人は、パンだけで生きるものではない。
 
神の口から出る、一つ一つの言葉で生きる。」         マタイによる福音書 4章 4節

 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、「誘惑する者」がイエスを挑発して問いかけました。同じことを誰だってイエスに言ってみたくなるときがあるのではないでしょうか。なぜなら、世界にも国内にも貧富の差の現実があるからです。もしも、パンが世界に充分にあれば、世界の問題のかなりが解決されるはず。だからぜひとも石をパンに変えることを、「神」とやらにやっていただきたいと挑発するように願うのです。
 けれども、その願いは、人間を救うための大きな願いであると共に、人間をだめにする誘惑でもあることを、イエスはここで教えておられます。なぜなら、神のおかげで、努力せずパンを得ることができるならば、パンには価値が無くなってしまうからです。 本当に必要なものの価値を失わせる願いは、どれだけ世界の問題を解決できるかのように思えても、本当は誘惑なのです。それに乗っていくと、私たち自身が今度は他者を「誘惑する者」へと、無残に変えられてしまいます。私たちはそのことにどれだけ自覚的であったでしょうか。
 ものごとの価値を失わせてしまう言葉にだまされて生きるのではなく、ものごとの価値を知らせてくれる「神の口から出る一つ一つの言葉」によって共に生きる道があります。そこにこそ、共にパンを作って食べることのできる道が。

              食卓のいくつもの手作りパン

 

4.「隠れたことを見ておられる、天の父が報いてくださる。」
           マタイによる福音書 6章18節

 イエスはここで、善の行いは、わざわざ人に見せるなと教えています。どういう意味でしょう。
 ある方は、大衆とは、楽しむことを喜び、説教されることを嫌うものだと言いました。善の意味について知ることよりも、悪に近い欲望の充足に「人間味」を感じておもしろがるのが、世の中に生きている人間の実像ということです。確かに、それが人間の実像でありましょう。しかし、それが人間の本質であるならば、善にはどんな意味があるのでしょう。人の行う善は、その人の本質につながっています。だから、その人の本質を知り得ない他人から、自分の善についての「表向き」の評価を受けて、論じ合ったり、喜んだり悲しんだりしているうちに、自分のなすべき善が何なのか、そのことに意味があるのか、私は偽善者なのか、などと悩むことになり、だんだんと善の意味がわからなくなるのです。 けれども、聖書には、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」とあります。そのときに、善の意味についての問題が全て解決するのです。おそらく…善の意味は、天の父なる神様だけが知っておられることなのでしょう。そうであるなら、善の意味は何かということについて、人と人とが、そんなに「表向き」に論じ合わなくてもよいのでしょうね。

             礼拝堂の小窓

 

5.「明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」     
     マタイによる福音書 6章34節

 イエスは、この言葉を語るときに、空を飛ぶ鳥を、また野の花を指して言われました。つまり、人が気にとめないような、自然の中の小さな存在を見ることを求めました。それらは、市場に持っていけばどれぐらいの価値があるかと計算されることもなく、ただそこに存在し、そしていつかは消えていきます。それを「はかない」と言えばそれまでですが、鳥や花は、自分を「はかない」などと思っているのでしょうか。神がくれた、この一日…。この一日を生きている存在は、けっして「はかない」ものではありません。人間一人ひとりもまた、そうではありませんか?
 それにしても、ふと思うことがあります。イエスはどうして、こんな言葉を言うことができたのかと。それは、もしかしたら、空の鳥や野の花が、イエスにそんなことを教えてくれたからなのかもしれません。自然と共に、他者と共に、この一日、今日という日を神によって生かされている人間が、なぜ明日のことまで不自然に一人で悩むのかと。神を避けて、なぜ一人で悩むのかと。

             野の花(雪の日)

 

6.「敵を愛し、自分を迫害する者のために、祈りなさい。」
            マタイによる福音書 5章44節

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは言いました。そう聖書にあります。しかしこれは普通の人間にはできるはずがないことです。イエスにとって敵とは何だったのでしょう。イエスを憎んだのは、最初は一部の人たちでしたが、やがて一般の民衆たちも、最初は期待していたイエスから離れ、憎むようになりました。なぜか敵になっていった人たちも一人ひとりを見ると、太陽や雨といった自然の恵みがなければ今日一日だって生きることができない、弱さを持った存在です。だからイエスの言葉は「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」となるのです。
 けれども私たちは、そんな理屈で、イエスのように敵を愛し、人を赦せるでしょうか。 危害を身体に加えられる可能性からくる、恐怖感が心身の奥からわきでてくるときには、人間にはそれは無理だとしか思えません。そんな私たちを見つめて「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言うのは、誰でしょうか。私たちは、もし敵を愛するとしたら、それは私たちがイエスとつながる「祈り」の中でしかできないのです。私たちは、敵を愛することなど到底できない自分自身の弱さ、小ささを、イエスを通して、神に白状してからでなければ、この言葉に耳を傾けるのは難しいでしょう。
 神の前では、誰もが、限りある身体の中に、傷みや苦しみを増やしながら、耐えながら生きている小さな存在です。できることはそう多くありません。そのことを思うときに、「敵」を憎み続けて、それで終わる人生ではなく、もうひとつの別の人生に私たちを押し出していく言葉が、人には必要ではないでしょうか。踏みにじられた人生に、いま、光がともされなければなりません。

              教会屋根の十字架

 

7.「聖書にも 『主を信じる者は、誰も失望することがない』と書いてあります。」             
           ローマの信徒への手紙 10章11節

 けれども、たくさん失望するのが現実の人生でないでしょうか。「こうなればよいのに」と願いながら、そうはならなかった、あるいはそうはなれなかったと、ため息をつくのが正直なところではないでしょうか。あれこれの結果に本当は納得していないけれども受け入れるしかない、そんな辛さを味わうときがあります。
 そんなとき、思い切って、自分ではなく他者の幸せを願ってみましょうか。すると、自分がどうであれ、新たな望みがわいてくるはずです。そうして「誰も失望することがない」のです。きっと、そこに、私たち一人ひとりに対して、まだ聴いていない神様の言葉、そして、まだ出会っていないイエス・キリストによる恵みがたくさんあるのです。
 失望とは「もう現実を知ってしまった」という落胆ですが、希望とは、これからのことです。これから起こることはまだ知らないのに、知ってしまったつもりでただ失望しているわけにはいきません。
 ところで、「誰も失望することがない」主キリストとはどんな御方なのでしょうか。それを知ることで、思い切って他者の幸せを願うことができるはずです。そして、そのときにはきっと、あなたは一人きりでいるのではないのです。

雪の中の夏ミカンの木の実

 

 

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